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神戸地方裁判所 昭和58年(ワ)747号 判決

原告

太田マツエ

右訴訟代理人弁護士

泉公一

被告

医療法人浩生会

右代表者理事

前田昌彬

右訴訟代理人弁護士

奥村孝

右同

中原和之

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、五一二七万五二七二円及び内金四九二七万五二七二円に対する昭和五五年一〇月三一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨の判決

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

被告は、舞子台病院(以下「被告病院」という。)を開設する医療法人であり、原告は被告病院において治療中の昭和五五年一〇月三〇日死亡した訴外太田清文(以下「清文」という。)の母である。

2  清文の診療経過等

(一) 清文と被告は、昭和五五年一〇月二九日清文の疾患を治療することを目的とする診療契約を締結した。

(二) 清文は、同日午後一〇時三〇分ころ自宅において呼吸苦を訴え、顔面蒼白となり、足がもつれ独歩が不可能となったため、原告に付き添われて救急車により被告病院に搬入された。

清文は、直ちに被告病院の当直医師増田潤(以下「増田医師」という。)の診察を受けたが、その際清文は、胸痛、心窩部痛、呼吸困難、全身倦怠感、冷感、吐気、腹部膨満感を訴え、頻脈、顔面蒼白、チアノーゼ、下腿の浮腫の症状がみられた。増田医師は、心疾患を疑い、原告に対し心臓病の既往症を尋ねた。

(三) しかしながら、増田医師は、精密検査は翌朝でないとできないとして、清文に水を飲ませないようにと原告に対し注意をして入院を指示し、鎮静剤ウインタミンの注射を看護婦にさせただけであった。

(四) 清文は入院後も呼吸苦を訴え、入眠できないでいたので増田医師の指示により同月三〇日午前一時三〇分ころ再度ウインタミンの注射がなされたが、清文の病状は次第に悪化し、同日午前五時四〇分ころ全身の強度の倦怠感及び背中の痛みが加わり、清文に付添っていた原告は何度もベツドサイドのブザーを押して看護婦に対し当直医師による診察を求めたが、医師に連絡しているとの答のみで診察はなされなかった。

(五) 同時刻ころ、清文から採血した血液の検査結果(結果は清文死亡後に判明した。)によると、血中クレアチン燐酸化酵素(CPK)が正常値の上限が九五であるのに三〇五、血中乳酸脱水素酵素(LDH)が正常値が四〇〇であるのに一〇九二、血中GOT(Glutamic oxaloacetic transaminase)が正常値の上限が四〇であるのに三五一と血中酵素がいずれも高値を示していた。

(六) 同日午前七時ころには清文の苦痛が強まり呼吸促迫状態となって、原告が看護婦に対し大声で清文を放置していることを非難した結果、ようやく酸素吸入の措置がとられたが、この間一度も増田医師の診察を受けることはなかった。

(七) 清文は、酸素吸入中も依然として呼吸促迫の状態であり、顔色は不良で皮膚は黒褐色を呈し、顔面及び手指に浮腫が見られた。

清文の症状は、その後も急速に悪化し、同日午前九時三〇分頃急変したため、個室に移されて治療を受けたが、同日午前一〇時五分ころ心筋梗塞により死亡した。

3  心筋梗塞の病状及び診断・治療

(一) 定義

心筋梗塞とは、心筋のある領域に対する冠動脈流血量の不足に基づいて起こる、心筋壊死によってもたらされる臨床上の症候群である。

(二) 症状

(1) 痛み

激しい胸痛が夕食後あるいは夜半に生ずることが多く、それが上肢、頚部、背部、心窩部に放散することもあり、痛みではなく、しびれ感や倦怠感として感じられる場合もある。しかし、痛みを欠く場合もあり、この場合は呼吸困難、心臓性喘息、不整脈、ショック、脳症状などが前面にたつ。また、精神病患者には胸痛を訴えない患者が多く認められる。

(2) 呼吸困難

胸痛に次いで多く認められる症状で、ショックによるアシドーシス(酸性血症)による呼吸促迫であることもある。通常左心不全による起座呼吸の形をとる。

(3) 胃腸症状

吐気、嘔吐、上腹部膨満感がしばしば発現する。

(4) 発熱

当初二四時間は低下傾向を示し、その後第二病日までに患者の大部分が発熱するが、ショックを合併している例では体温は低目となる。

(三) 検査所見

(1) 血液検査所見

血中CPKが速やかに上昇し、約二四時間後にピークに達する。同じく血中GOT及びGPTは六〜一二時間以内に上昇し、二四〜四八時間以内でピークに達し、同じく血中LDHは六〜一二時間以内に上昇する。また、白血球の増加が第二、第三日に(早い時には二時間後に)みられ、赤血球沈降速度も白血球増加に遅れて出現する。

(2) 心電図所見

特有の異常がみられる。

(四) 合併症

(1) 不整脈

急性期にはほぼ一〇〇パーセントの症例に出現し、急死の危険のある心室細動と心停止は一〇ないし一五パーセントの症例に出現する。

(2) ショック

約一〇パーセントの症例に出現する。ショック状態になると、血圧が下降し、脈拍は微弱で、頻脈となり、顔面は蒼白で四肢は冷たく、チアノーゼや全身に冷汗が出現し、乏尿、意識混濁となる。急性期死因の最大のものである。

(3) 心不全

約三〇パーセント前後の出現率で発生する。

(五) 診断・治療法

(1) 患者の訴え及び診察所見により、心筋梗塞が疑われる場合には、一刻も早く確定診断を下し、CCU(冠状動脈疾患集中治療室)への転送の可能性・必要性を検討しつつ治療を開始するため、病歴の検討、意識状態・呼吸・血圧・体温等一般的所見の観察、胸部X線写真撮影、心電図の継続的観察、血液検査(CRK、GOT、GPT、LDH等血中酵素値の測定)、静脈圧の持続観察等必要な諸検査を施行しなければならない。

(2) 当初の処置の目的は、患者を楽にし、安静を保って心臓の負担を軽減し、合併症を予防しつつ治療することにある。

一般的治療法としては、当初は絶対安静にさせ、毎分四ないし六リツトルの酸素吸入を行い、強い痛みがあるときは塩酸モルヒネを、軽い痛みのときはソセゴン等を皮下注射し、最初の二四時間は食事は禁止し、水分補給のみとする。合併症の治療としては、不整脈については、その態様に応じて、リドカインの静脈注射ないし点滴、硫酸アトロピンの筋肉注射、ジギタリスの静脈注射等を行う。心不全については、ジギタリス及び利尿剤を用いる。ショックについては、ノルアドレナリン、副腎皮質ホルモン、重炭酸ナトリウム等を用いる。

4  被告の義務懈怠

(一) 清文には初診時において、前記2(二)のとおりの症状があり、右症状は心筋梗塞あるいは少なくともなんらかの心疾患を疑わせるに十分なものであったのであるから、増田医師としては、致死的不整脈、心不全、ショックないし肺梗塞のおそれがないかをチェックし、CCUへの転送の必要性・可能性を検討するため、病歴の検討、意識状態・呼吸・血圧・体温等一般的所見の観察、持続的な心電図の監視、胸部X線写真撮影、尿量、種々の臨床学的検査、静脈圧の持続監察を行ない、かつ救急措置として心身の安静保持、静脈圧測定及び輸液のための静脈確保、酸素吸入をまず施行し、不整脈、心不全またはショックが合併するときはそれらに対する治療措置をとるべきであったのに、前記2(二)・(三)のとおり、簡単な診察をしただけで心電図の監視など直ちに施行すべき諸検査を行わないまま、類似疾患との鑑別、不整脈等の合併症発生の可能性、CCU収容の必要性について何ら判断を下すことなく、心筋梗塞に最低限必要とされている前記救急措置さえ講ずることなく清文を放置し死に至らせた。

(二) また、同月三〇日午前五時四〇分ころには、清文は前記2(四)・(五)のとおり、より顕著に心筋梗塞を疑わせる症状を呈していたのであるから、増田医師としては、この時点で再度慎重な診察を行ったうえ右(一)記載の検査及び治療を施行すべきであったのに、同日午前七時ころ看護婦に対し酸素吸入を指示したのみでこれを怠り、ために清文を死亡するに至らしめた。

5  損害

(一) 清文の損害

(1) 逸失利益

清文は、死亡当時無職であったから賃金センサス昭和五六年第一巻第一表男子労働者産業計企業規模計学歴計平均給与額(三六三万三四〇〇円)を基礎とし、これに昭和五六年以降のベースアップ分として五パーセントを加算して計算した三八一万五〇七〇円をもって清文の逸失利益算定の基礎たる年収額とするのが相当である。

清文は、死亡当時三一歳であったから存命していればそれ以降三六年間就労可能であるところ、清文の生活費として収入から五〇パーセント控除したうえ、前記年収額を基礎にホフマン式計算法(ホフマン係数20.275)により清文の逸失利益を算出すると、次の計算式のとおり、三八六七万五二七二円となる。

363万3400(円)×(1+0.05)×(1−0.5)×20.275−3867万5272円

(2) 慰藉料 五〇〇万円

(二) 原告の損害

(1) 慰藉料 五〇〇万円

原告は、清文と同居し円満な親子関係を維持していたにもかかわらず、突如として清文の生命を奪われたものであり、その精神的苦痛は計り知れない。その慰藉料としては五〇〇万円が相当である。

(2) 葬儀料 六〇万円

(3) 弁護士費用 二〇〇万円

(三) 原告の相続

原告は、清文の前記損害金合計四三六七万五二七二円を相続した。

よって、原告は、被告に対し、診療契約の債務不履行に基づき、損害金として五一二七万五二七二円及びうち四九二七万五二七二円に対する清文死亡の日の翌日である昭和五五年一〇月三一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の(二)の事実のうち、清文が昭和五五年一〇月二九日に救急車で被告病院に搬入され、増田医師の診察を受けたこと、初診時に増田医師が原告に対し清文の心臓病の既往歴を尋ねたことは認め、その余は争う。清文の心臓病の既往歴を尋ねたのは、心臓病を疑ったために行った質問ではなく、清文の既往歴全般を聴取する一環としてなされたものにすぎない。

同2の(三)ないし(七)の事実は争う。

3  同4はすべて争う。

4  同5の事実のうち清文が死亡時三一歳であったことは認め、その余は争う。〈以下、省略〉

理由

一請求原因1の事実及び同2の(二)の事実のうち清文が、昭和五五年一〇月二九日に救急車で被告病院に搬入され、増田医師の診察を受けたことは当事者間に争いがない。

二請求原因2の(一)の事実は弁論の全趣旨によりこれを認めることができる。

三清文の症状及び診療経過等

〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができ、原告本人尋問の結果中右認定に反する供述部分は採用できず、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

1  清文が昭和五五年一〇月二九日午後一〇時三〇分ころ自宅において、原告に対し苦痛を訴え、救急車を呼んでほしいと申し出たので、原告は直ちに救急車の出動を要請し、清文は救急車により同日午後一一時〇七分被告病院に搬入された。なお、救急隊員作成の救急出動報告書(乙第四号証の二)中の事故概要欄には「全身がむくみ吐気を訴え苦しがったもの」、病名欄には「ノイローゼ」、患者観察欄には「意識正常、顔面蒼白、呼吸頻呼吸、脈拍頻脈、瞳孔正常」なる各記載がある。

2  被告病院到着後、清文は救急隊員二名の介助を得て歩いて外来診察室に入り、同所において、直ちに当直医師であった増田医師の診察を受けたが、顔色が悪く、眼球血膜に軽い黄疸症状、下腿に軽度の浮腫及び軽度の腹部膨満が認められたものの血圧132/58、脈拍七二、体温36.5度と、同人の一般状態に特段の異常はなく、肺ラッセル音(肺うつ血を示す音。以下「肺ラ音」という。)は聞かれず、意識清明で心音にも異常はなかった。しかも、清文は、増田医師の問いかけに対しほとんど応答せず、意思の疎通を欠き、付添っていた原告もまた要領を欠く応答に終始したため、清文の生活状況及び既往歴はむろんのこと、清文の主訴自体必ずしも明らかでなかった。しかし、増田医師は、かろうじて清文ないし原告から上腹部痛ないしは同所の膨満感、全身の倦怠感、息苦しさ、吐気を愁訴として聴取し、その際、清文の応対態度(ほとんど発語がないうえ意思が円滑に疎通せず、隔絶感がある。)から精神分裂病の疑いをもち、同日午後一一時二七分ころ、救急隊員に対し、「ノイローゼ」と病名を告げ、病院から引き揚げさせた。そして、増田医師は、清文の上腹部痛に対する鎮静鎮痛剤として、ソセゴン三〇ミリグラムの皮下注射を看護婦に指示し施行したうえ、経過観察のため清文の入院を受け入れることとし、同日午後一一時四五分清文は車イスで被告病院東館二三六号室に入室した。その後清文は、イライラした感じで体動が激しく不眠を訴えたため、増田医師は、入眠剤ウインタミン二五ミリグラムの皮下注射を看護婦に指示し施行した。

3  増田医師は、病室において清文を再度診察した後、翌三〇日午前零時ころから同日午前一時ころまでの間、約一時間にわたり別室において、原告に対し、清文の生活状況、既往症等について詳細に質問した結果、原告から、清文は昭和四六年ころ肝炎に罹患し、昭和五二年に精神科医から精神分裂病との診断を受けたことがあること。そして、いずれについてもその後特に治療は行っていないこと、清文は精神分裂病様の症状のため無職であって、原告と同居生活を送っていたものの自閉的で普段も部屋に閉じこもり、食事は原告が部屋に差し入れておくという状態であったため、原告においても清文の日常の状態を十分把握していないこと、入院二、三日前から食欲がないなど少し具合が悪かったことなど不明確ながら事情を聴取した。

4  増田医師は、右診察及び原告からの事情聴取によって、入院前数日間の清文の状態と入院後のそれとの間にはさして変化はないものと判断し、清文の症状を肝障害及び精神分裂病並びに栄養失調によるものと診断し、精神科医との協力による治療が必要である旨原告に対し説明した。

5  増田医師は、同日午前一時三〇分ころ、看護婦から、清文のイライラした状態が続き不眠を訴えているとの報告を受け、同看護婦をして清文に対し再度、入眠剤ウインタミン二五ミリグラムの皮下注射を施行させた。なお、看護記録(乙第一号証の七)の同時刻欄には「嘔吐+」なる記載がある。

6  看護婦は、同日午前五時四〇分ころ、前夜の増田医師の指示に従い、清文から採血したが、その際清文は看護婦に対し、強度の全身倦怠感を訴え、前夜から入眠できず、イライラ感があると述べており、この時の清文の血圧は、最高値一〇四ミリであった。

7  巡回看護婦がみた同日午前七時ころ、検温時の清文の状態は、血圧138/80、体温三六度、脈拍八四、全身色不良、チアノーゼなし、吐気、嘔吐、腹痛はないが強度の全身倦怠感及び呼吸苦の増強を訴えるというものであった。看護婦は、原告が酸素くらいやってほしい旨要求したため、その旨を増田医師に報告した。

増田医師は、看護婦に対し血圧、脈拍、体温等清文の一般状態に変化のないことを確認のうえ、呼吸苦を緩和するため流量毎分三リットルの酸素吸入を看護婦に指示し、右処置がなされた(酸素吸入を施行した事実は当事者間に争いがない。)。右処置後清文は原告に付き添われてトイレに行き、排尿、排便した。

8  同日午前八時三〇分、増田医師は当直の勤務を終え、同日午前八時四五分、当直看護婦から日勤看護婦への交替が行われた。そして、東病棟の主任看護婦である太田看護婦は、夜勤看護婦から、前夜清文が救急車で搬入され入院した旨の報告を受け、同日午前九時一五分ころ清文を見巡ったところ、その際、清文は同看護婦の問に対し、水が飲みたい、明け方は苦しかったが酸素吸入をしてから少し楽になったなどと答え、同看護婦の観察によると、呼吸は促迫、顔色は不良で顔面・手指に浮腫がみられ、皮膚は黒褐色、口唇色は不良であった。

9  同日午前九時三〇分ころ、原告が清文の容態が急変したことに気づき、受持の看護婦及び太田看護婦が相次いで清文の元にかけつけた。清文は脈拍微弱、努力呼吸(あえぐような呼吸)、顔面・口唇は蒼白の状態で、呼吸苦及び胸苦を訴え苦悶し、体動が激しかった。そして、看護婦は同日午前九時三七分ころ、清文が無呼吸の状態となったので、酸素吸入の流量を五リットルに増量するとともに、人工呼吸、心マッサージを施行し、ついで、太田看護婦の連絡を受けてかけつけた深水医師は点滴(生理食塩水五〇〇CC、ソルコーテフ)を開始し、チェーンストーク(呼吸中枢の働きが弱まったときにおこる特有の呼吸現象)、瞳孔散大がみられ、危篤状態に陥った清文を人工呼吸、心マッサージを継続しながら、三階の個室に輸送し、心電図検査を開始した。同医師は清文の心音が聴取不可能となったため、カウンターショックを二回施行したが、回復せず、清文は、同日午前一〇時五分死亡した。

四心筋梗塞の一般的症状

〈証拠〉によると、次の事実を認めることができる。

心筋梗塞は、冠状動脈流血量が減少し、その支配領域の心筋が壊死することによってもたらされる症候群であり、四〇歳以上に発症することが多く、極めて死亡率の高い危険な疾患であり、特に発症から一、二時間以内は急死が非常に多いという特徴がある。

典型的心筋梗塞の発作当初の症状で最も特徴的なものは、締めつけられる、押えつけられる、焼ける、窒息するなどと表現される激しい胸痛であり、このため患者は苦悶の様相を呈する。非典型事例としては、心筋梗塞が上腹部痛(心窩部痛)で始まることも、また、胸痛が自覚症状として訴えられない例もみられる。そして、無痛性梗塞が老人や精神病患者に多く認められることは専門家によりしばしば報告されている。

胸痛についで多く認められる症状としては呼吸困難があげられる。急速かつ大量の心筋虚血・壊死による左心機能不全によるものであり、心所見のほか湿性ラッセル音が両側性に聞かれることにより他疾患によるそれと鑑別される。その他の症状として吐気、嘔吐等の胃腸症状、発熱、チアノーゼ、冷汗、徐脈等がみられる。なお、剖検や心電図集団検診で認められた梗塞例など全く臨床症状を欠く場合もないわけではない。また、検査所見としては白血球の増加、CPK、LDH、GOT、GPT等血中酵素値、カリウム値の上昇、ナトリウム値の低下がみられ、心電図検査では発症後数時間ないし二四時間以内に梗塞曲線と呼ばれる特徴ある変化を示す。

右症状に加えて不整脈、血圧低下・皮膚冷感・冷汗・意識障害等のショック症状、心不全等の合併症を伴うことが多く、発作直後から二四時間以内のいわゆる急性期においては、不整脈が一〇〇パーセントの例に見られる。そして、不整脈、心不全、ショックによる死亡が急性期における死因の大部分を占める。

心筋梗塞の診断は、激しい胸痛からその疑いがもたれ、典型的な例ではその症状のみでほぼ間違いなく診断することができる。その他の場合でも、心電図、血中酵素値の上昇等の検査結果によって確定診断に至ることができる。

五血液検査の結果

〈証拠〉によれば、前認定のとおり、増田医師の指示により三〇日早朝採血された清文の血液検査の結果は同人死亡後判明したこと、右血液検査の結果によると、CPK三〇五(正常値の範囲二三ないし九五)、LDH一〇九二(同二一九ないし四〇〇)、GPT二〇九(同八ないし五〇)、GOT三五一(同一二ないし四〇)、ナトリウム一三三(同一三六ないし一四五)、カリウム4.8(同3.7ないし4.8)、白血球九八〇〇(同四〇〇〇ないし八五〇〇)等血中酵素値の上昇、カリウム値の上昇傾向、ナトリウム値の低下、白血球の増加傾向があったことが認められ、右認定に反する証拠はない。

六清文の死因

前認定のとおり、清文は同月三〇日午前九時三〇分ころ、容態が急変し、脈拍微弱、努力呼吸、顔面・口唇蒼白でチアノーゼを呈し、激しい胸痛に襲われ苦悶状態に陥っていたこと、右の症状は、前記四認定の典型的心筋梗塞の発作後の症状にきわめて近似していること、清文の容態が急変した直後から清文死亡までの間に深水医師は心電図検査を施行したこと、同記録には心筋梗塞患者特有の波形が現われていたこと、後記認定のとおり、同医師は右心電図所見を重要な根拠として、清文の死因を心筋梗塞と判断していること、前記五認定の血液検査の結果は前記四認定の心筋梗塞発症時の鑑別診断の基準となる血液検査所見に矛盾しないものであること等を勘案すると、少なくとも右午前九時三〇分ころの時点において、清文は心筋梗塞の発作を起こし、ショック状態に陥っていたものと認めるのが相当であり、従って、清文は心筋梗塞が原因で死亡したものと認めるのが相当である。

七被告病院における清文に対する診療の過誤について

前記三ないし六で認定した事実を前提にして、被告病院における清文に対する診療の過誤の有無について検討する。

1  清文に対する初診時における診療について

(一) 初診時における清文の症状は、前記三・2認定のとおりであるところ、原告は初診時において清文は右症状に加え胸痛を訴え、チアノーゼを呈するなど心筋梗塞の症状がみられたと主張し、いずれも成立に争いのない甲第二、第一一号証によれば、深水医師作成の死亡診断書(同月三〇日付 甲第二号証)中には「直接死因心筋梗塞、発病から死亡までの期間約一〇時間」なる記載が、同じく同医師作成の死亡診断書(同月三一日付。甲第一一号証)中には、「入院時ややチアノーゼ気味、胸痛及び心窩部痛を訴える。心電図により心筋梗塞と認む。鎮痛剤にて一時転快したようであったが三〇日朝急に胸苦を訴えショック状となり死亡した」旨の記載がそれぞれなされていることが認められるけれども、証人深水真知子及び同伊東隆一の各証言によると、清文の死亡直前約三〇分たらずあわただしく同人の治療に当ったに過ぎない深水医師が前記甲第二号証の死亡診断書に「発病後約一〇時間」なる記載をしたのは、清文死亡後、同医師が原告から、清文は二九日午後一一時ころから苦しみだした旨聞きとったことを根拠としたものであり、増田医師の意見を聴したり、乙第一号証の七の看護経過を正確に判断したものではないこと、甲第一一号証の死亡診断書は、深水医師差し支えのため、全く清文の診察をしたことのない被告病院副理事長伊東隆一医師(以下「伊東医師」という。)が、清文の入院カルテ、看護記録(乙第一号証の一ないし七)を大ざっぱに読み取り、前記甲第二号証の死亡診断書を参考にして記入し、その後深水医師が内容を確認し、自己の名下に捺印して作成されたものであること、伊東医師は、前記甲第二号証の死亡診断書に「死因 心筋梗塞 発症後約一〇時間」なる記載が、前記看護記録(乙第一号証の六)に「入院時上腹部痛あり」との記載があったことから、若干の推測をまじえて右死亡診断書の記載をしたことが認められるから、右各診断書中の右各記載部分は初診時に清文においてすでに心筋梗塞の発生があった事実を認めるに足りる資料となるものではない。

(二)  前認定の清文の初診時の臨床症状のうち、心筋梗塞の症状ないしはその前駆症状であったか否か問題となる症状は、上腹部痛、倦怠感、腹部膨満感、呼吸苦及び下腿の浮腫である。

前説示のとおり、典型的心筋梗塞の発作時における胸痛は、極めて激しく、それのみでほぼ間違いなく、心筋梗塞と診断を下せるものであるのに、初診時において清文に、右の如き症状の認められなかったことは明らかである。

もっとも、前認定のとおり、非典型的事例として、まれには胸痛がない場合、胸痛が極めて軽度である場合、痛みが上腹部痛として現われる場合があり、精神病患者の場合、右無痛性心筋梗塞の例がままみられるのであるから、清文に精神分裂病の疑いの認められた本件においては、典型的胸痛発作がなかったからといって心筋梗塞の疑いが全くなかったということには勿論ならない。

しかしながら、清文には前認定のとおり軽度の腹部膨満、浮腫、眼球血膜に軽い黄疸症状など明らかな肝疾患症状及びイライラした感じで体動があり、隔絶感があるなど精神分裂病様の症状が認められたところ、初診時に清文に認められた全身倦怠感、腹部膨満感、浮腫は肝機能障害の症状として十分理解可能であり、前認定の清文の既往歴及び生活歴からして肝機能障害の悪化が予想できたからむしろそう理解することが自然であったこと、清文の訴えは不明確で最終的には右上腹部痛を確認したものの、それは腹部膨満感との区別のつきにくい訴えであったこと、呼吸苦も息苦しさを訴える程度のものであったうえ、腹部膨満に伴うもの、あるいは精神病疾患に伴うものとの理解も可能であり、かつ、肺ラッセル音は聞かれなかったこと、心音は純でその他、血圧、脈拍、体温に異常はなかったこと等の前認定の諸事実に鑑みると、右各症状が心筋梗塞による死亡事実から事後的に観察した場合心筋梗塞の前駆症状のあった可能性は全くないと断言できるものではないけれども、右各症状を肝障害及び精神分裂病によるものと診断し、既往歴及び生活歴の聴取に時間をさき、入眠剤、鎮痛鎮静剤を投与して清文を経過観察入院をさせ、翌朝の精密検査(血液検査、尿検査)を指示した増田医師の右時点における診療行為は不相当とはいえず、医師としての注意義務違反はなかったものというべきである。

2  清文に対する入院後における診療について

清文の入院後の症状及び経過は、前記三・5ないし9認定のとおりであり、初診時から同月三〇日午前五時ころまでの間は、清文の症状にさしたる変化はみられない。

原告は、同日午前五時四〇分ころから清文の息苦しさ、全身倦怠感が増強し、背部痛も加わってじっと寝ておれず、起座呼吸するほどの重篤な状態に急変したため、何度も看護婦を介して医師の診断を求めたが放置された旨主張し、原告本人尋問の結果中にはこれに添う供述部分があるので検討する。

看護日誌(乙第一号証の七)中の同時刻の欄には「強度の全身倦怠感を訴える、口喝(+)吐気(−)嘔吐(−)、入眠できなかった由、気分落ち着かなくイライラするとの由。様子観察す。」なる記載が、同日午前七時の欄には「呼吸促迫にて呼吸苦訴えるため酸素吸入毎分三リットル施行。血圧138/80、体温三六度五分、脈拍八四。今朝自尿。排便少量あり。強度の全身倦怠感、胃・腹部膨満感あり。チアノーゼ・吐気・腹痛なし。夜間注射施行するも良眠できずと。」なる記載が認められるところ、右記載によれば、清文は十分睡眠がとれず全身倦怠感及び呼吸苦の増強を訴えていたことは認められるものの、右時点で清文に背部痛が生じるなど症状が急変し、重篤な状態に陥っていた旨の原告の主張を裏付ける記載は存しない。

前認定のとおり、清文には入院当初からイライラ感、体動があり、全身倦怠感や不眠を訴えるなどの症状がみられ、看護日誌の記載から推認される右各症状は、清文に入院当初から見られた症状の継続と不眠による若干の症状悪化と理解可能なものであったというべきである。

もっとも、同日午前五時四〇分ころ清文から採血された血液の検査結果は前記五認定のとおりであるところ、同四認定の心筋梗塞の血液検査所見並びに前記甲第三、第九、第一〇、第三六号証によれば、右検査結果は清文に肝機能障害のあったことを示す内容ではあるが、CPKの上昇などそれのみでは説明できず、かつ心筋梗塞の発症を疑わせる内容が含まれていることが認められる。右事実(右検査結果が清文死亡後に判明したことは前認定のとおりである。)に清文が心筋梗塞の発作によりその数時間後に死亡した事実を前提として事後的に検討すると、右症状が心筋梗塞の症状ないしはその前駆症状であった可能性は否定できないが、仮にそうであったとしても、前認定の既往歴・生活歴を有する清文の右症状はそれのみでは心筋梗塞の発症を疑わせるに足りる症状であったものとはいえず、他にこれを疑わせる症状はなかったのであるから、右血液検査の結果がいまだ判明していない段階で右症状を肝機能障害及び精神疾患の症状の持続・悪化と考えた増田医師の判断はやむを得なかったものというべきである。

従って、前認定のとおり、午前七時ころ原告の要請により酸素吸入の措置がなされる前に看護婦から清文の右症状の報告を受けた際、増田医師が清文の一般状態を確認しただけで診察をしなかった点にも診療上の過誤は認められない。

その他、被告病院に診療契約上の債務不履行があったとの事実を認めるに足りる証拠はない。

八以上のとおり、原告主張の被告病院の診療行為の過誤の主張は、いずれも理由がないものであって、被告病院に対し診療契約上の債務不履行を認めることはできない。

よって、その余の点について判断するまでもなく、原告の本件請求は失当であるから棄却することとし、訴訟費用について民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官広岡保 裁判官杉森研二 裁判官飯田恭示)

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